昭和40年02月10日 朝の御理解
世の中には、言いたい事をぞんぶんに言い、したい事を【 】しながら気持ちのよいような生き方をする人があります。皆さんの周囲に、そんな人がございますでしょうか、気持ちの良いごとある。あげん言えたらさぞ良かろうと云う。言いたい放題、したい放題の事を気持ちの良いように生きていく人があります。信心をさせて頂く者、神様を信じた生活、そう言う信念の生活と云うか神様を信じきらしての生活をさせて頂く者は、それとは反対の生き方を致します。
言いたい事もよう言わず、したい事もやはり慎み抜かせてもろうて、本当に、この世の中の、いうなら貧乏クジを自分が一人で引いたような生き方をするのが信仰、本当の信仰、本当の宗教者の姿だと私は思う。この世の中の貧乏クジを一人で引いたような生き方、まあ云うなら、「馬鹿とあほう」の生き方と云う事になりますでしょうね。「信心辛抱さえしとれば、物事整わんことは無い」と云う事にもなるでしょうね。「こりを積ますなこりを積むな身を慎め」と云う事になるでしょうね。
そう云う生き方、貧乏クジを一人で引いたような生き方の中にです、宝クジを引きよせたような生活が出来ると云う所に、信心の素晴らしさ、信心さして頂くものでなければ、味わう事のできないような幸せと云うものを感じる事が出来ると私は思うです、ね。皆さんどうでしょう、私はね、信心生活ってそう云うもんであると云う事を一つ思い込まなければ駄目だと思う。
私今朝方こんなお夢を頂いた。『私が居酒屋の親父のような感じです。もう年をとってます。そこの息子達が、自分の所に酒はふんだんにあるもんですから酒を飲みなおし、そしてまあ銘々にその仕事についておると云ったような感じです。番頭さんに、久富先生がなっておられる。どこどこに集金にやらせて頂いたら、逆因縁をつけられてから、もう這々(ほうほう)の体(てい)で逃げ帰っておられる所である。
私が思うたり言うたりしておる事、本当に、あの息子もこの息子も初めからあぁじゃぁなかったのに段々成長するに従って、お酒を飲みならし根が悪んじゃないのだけれども、酔狂するようになってから困ったもんだと私が言うておる所であった。その息子と云うのが、今の椛目の青年部の方達の錚々(そうそう)、椛目で云う、まあお歴々なんです。菊栄会の連中もおります。そこへあのこれは、はっきり嘉郎さんですね。
今のあれより肥え、タイプがよくなって肥えて横縦こう太っとるです。どっから見ても何処かの若親分と云ったような感じですね。こうソリの付いた雪駄なども履いて、大きな総絞りの帯どもしながらですね、そして私に言いよるとです。「親父さん心配しなさんなって、私はこんど来たらね、私がもう一撃のもとにやっつけちゃるから親父心配すんな。」と、私に言いよるとです。それで私が、その嘉郎さんの言う事と、ふうを見てから言いよるとです。ね、
手には角打ちの金の指輪をはめております。本当にこの人が息子達をですたいね、例えば酔狂するのを叩いてでも、まあ叩いてでもくれるってよかろう。けれどもあの角打ちの金の指輪で頭をやられたら、頭を割ってしまうじゃろう。 けどもまあ、お腹を叩いてから親父心配するなって言よるもんじゃけ「まあよろしゅうお願いします。」と言よるけれども、これが叩いたら、大変なかえって怪我をしてから困った事になるだろう』と云ったようなお夢でした。
そのような、もう秋永先生が、もう、そのお国替えをしとるとです。ね、して、御霊様で現れている所です。もうそれはそれは素晴らしい、その北野天満宮様のような、なかばどうも天神様らしい天満宮様らしい、もう素晴らしいその境内、もう丁度、善導寺の御本尊にあるような大きな楠が境内にはこうある訳なんですね、その外側から、その御霊様のいわば、お祖父さんです。お祖父さんのそりゃ秋永先生です。『ここの先代の時にゃなぁ、いや、ここの初代の時にゃ~な、たいした御ヒレイじゃったっち。
今思えば、丁度これがただ見物するような遺跡というか、その残されたそう云う物を、ただこう見物するようなぐらいになってから、「今ごろの若い者のどうにも出来ん」って言うてから、その歓談しておる訳なんです。ね、その御霊様、そして「この人なんか、もう見向きもせんで行くが、この梯子をなぁ、私達が昭和の時に信心の稽古をさしてもらよる時には、この梯子を何段登れるかと言うて、楽しみによう登ったもんじゃが、これはず~とその天地を貫く梯子じゃ。」
その梯子と云うのが何間幅ぐらいあるでしょうか、しかもその梯子の丁度駅なんかにこう梯子が、渡り廊下ありますね、梯子の裏からこう。所謂、外側から見て境内の中から梯子がこうついておるんですね。何処までも続いておるような、分からんような、それをその境内の、所謂、外からです、外の道から、そのこう云うふうに梯子が掛かっておるなら裏から見ておる訳です。
この例えば「木を見てご覧、とにかく厚さは1寸ぐらいある。しかもそれ全部楠で出来ておる。これが出来る時分にはな~、たいした事じゃったて、今頃ただ下から見るばっかり、いや見らんですうと通って行くもんだけが多くなった」っていうて、御霊様が歓談しておる所だった。ね、「見てご覧、楠じゃから、楠で出来ておるから、虫一つ付いておるまいが」と、そのまあ何人かの人達に、その御霊様が説明しよるところですもん。又それから次には、丁度、門前市と云ったような感じですね。
そこへも同じ年輩ぐらいの人達がですね、こう腕を組んでですね、こう丁度、足並みを揃えてです、所謂、闊歩(かっぽ)しておる所です。それを周囲の人達が見てから、足並みが揃っておるとはよかもんじゃある、と言いよる訳なんですね、皆んなが、所が、その足並み揃えて腕を組んで行きよる人がですね、とにかく足並み揃えていかんならんもんですから、とにかく足並み揃えて行くと云う事は、とても何時いつまでも出来るもんじゃぁない。ね、
例えば横隊を組んで、すっとこう足並み揃えてから、横一文字にずっとこう進んで行くと云ったような事をです、号令をもとに、その時だけなら出来てもです、いつもかつもそう出来るもんじゃないて、足並みを揃えると云う事は、とても脇から見たら、「ああ素晴らしい」って言うて見るけれども、足並み揃えて行きよる者自身はこのようにきつい事はない』と言うておるようなお夢であった。
そう云う私は、そのお夢の中から、ね、私、今朝の御理解を皆さんに聞いてもらおうと思っておるんです。いや、皆さんにじゃないです。もう本当にいついつ迄も残る御理解としたい、そんな気が致します。今日は、ね、世の中をです、言いたい放題気持ちの良いように、言いたい放題に言いながら、したい放題な事をしながら、気持ちの良いような生き方をしておる人、それは気持が良いのじゃありません。
気持ちが良いように脇から見たらあるのです。あげんずばずば物がゆえたらさぞ良かろうと、自分にしたい放題な事が出来たら、本当に良かろうごとあるけれども、それは気持ちの良かごとあるだけであって、それは本当の生活ではない。宗教する者、信仰生活をさせて頂く者はです、言いたい事もよう言わず、したい事も慎んでようせず、ね、それでいて、ね、言わんですむ事の喜びに浸らせてもらい、慎ませて頂き、いわば世の中の貧乏クジは自分一人が引いとるんじゃなかろうかと云うような感じだけれども。
後々になってみたら宝クジは自分一人で引いておるのじゃなかろうかと思うような幸せを感じていけれるような生活。ね、それを私共が日頃頂いておる御教えをもって云うならばです、「馬鹿とあほう」でいく事であろう。又は「こりを積ますな、こりは積むな、身を慎め」と云う事でもあろう。「信心辛抱さえしておれば、物事整わぬ事は無し」と云うような事にもなろうという訳なのです。
お互い信心の稽古させて頂きましてです、成程、成長して参ります。酒店さんの息子だから、やはり酒も飲みならいます。有難喜勿体無喜成長するに従って、いわば神様を信ずる力も出来ます。ところがその力が腕力になり兄弟喧嘩になり、ね、私そのお夢の中に頂いておるようにです。酒を飲んだからというて集金に、いっておるのにさか因縁をつけるような事になってくる。
これは、お道の歴史をひもといてみましても、それを感じる事が出来ます。大阪辺りの、それこそ当時、日本一を言われたような教会はいくらもあります。大阪辺りには、しかもそれが親子であったり、兄弟であったりと云うような教会ですけども、その同じお道のおかげを頂き、金光様を拝ませて頂きながらです、ね。ただ自分の信心の圏内(けんない)を守ってゆく事だけで、敵身しあい、ね、ある場合は妬(ねた)み合い、ね、持っておる力をもってしのぎを削っておるとゆうような事があるんです。
これは大阪だけじゃありません。九州だって同じ事です。ね、同じ親の腹の中から出た信心がです、云うなら甘木に出来た、久留米に出来た福岡に出来たと、それが、ここは甘木地区の圏内ぞ、ここは福岡の場所ぞと云うて、私は何かこう、本当に心の中を言うたならです。ね、兄弟と兄弟が血で血を洗うようなです、血で血を洗うような醜い争いがです、ようなものが果たしてないだろうか、私はあると思うですね、
有難喜、いわゆるお神酒を頂きすぎて、いわばお神酒がお酒になり、酔狂が出ておる姿じゃなかろうかとこう思うのです。・・・?があってから信心して、そう云う事があっちゃならん、あれどんがぐずぐず言うなら私今度ぶん殴ってやると言うておるのを聞いておると、有難い様であって有り難くない。怪我どもさせたら大変だと親は心配しておるのである。集金に行きゃ、返って逆因縁をつけられて番頭さんが逃げ帰って来なければならないような姿がです。
これは大阪だけではありません。九州だけではありません。日本中にそう云うような、いわば感じの状態と云う物がないだろうか、どこかが狂うてきたら、そう云う事になって来るだろう。椛目だって同じ事。ね、本当に、昨日の【久保山先生のとこの御理解じゃないですけども、本当に富士山を目指しての、信心させて頂く事になれば、又沢山の子供も出来る事であろう。
それが例えば、一時代、二時代過ぎた時にです、今ここで、私について信心の稽古しておる秋永先生なら、秋永先生あたりの御霊様が出て来てからですたい、「ほんに昔はこうじゃったけれども、今頃こんなになってしもうてから」と、御霊様が歓談しなければならないような事にならないでしょう。ね、私はね、信心の足並みを揃えると云う事は、大変それはよいものであって。
実を云うたら私、これは見ておる者は素晴らしいように見えるけれども、足並みを揃えておる者はこんなにぎこちない不自然な事はないと云う事です。乱れてもかまわん。但し、目指す所は同じであればそれでよろしいと云う事。それぞれの個性、それぞれの性格に応じた信心をさせてもらい、目指す所が同じであれば、それは楽であると云う事。足並みを揃えていくと云う事は、それは難しい事であると云う事。
見かけはよかろうようにあるけれども、それはきつい事であると云う事。それはなら、乱調子に乗ってもいいけれどもです、乱れた調子になってもいいけれどもです、但し目指す所は同じ所を目指してから、行っておると云うもんでなからなければならないと云う事。昨日の新聞を見ますと、アメリカの飛行機が、ベトナムですか、を爆撃をいたしておりますね。それに対して中国、ま、あれはもうベトナムじゃない。
自分の国を爆撃したも同じ事だと息巻いておりますですね。世界の大きな勢力がです、ね、権勢しおうております。ね、いよいよの時には、どげな準備でも出来ておるぞと云うてお互いが、いわば威嚇(いかく)しようとしております。そう云う事によって、平和を保とうと云ったような考え方からですたい、ね、所謂言いたい事もよう言わず、ね、したい事も慎んで、ようしろと云うような生き方がです、私だけではない、金光教だけではない、ね、世界真の平和を信心によって祈らせて頂く者がです、ね。
言う以上の行う以上の、私は平和を保っていけれるような幸せをです、感じていけれる事の為に、お互いが祈りを奉げさしてもらわねばならないのであり、せっかく酒店の息子にお互い産まれ合うたのであるから、その有難喜勿体無喜をです、よって力を得たのでございますからです、兄弟喧嘩の例えば力に使わずです、そう云う祈りの、そう云う力をです、ね、世界真の平和の為に行じさしてもらうようなあり方になっていかない所に問題があるのじゃなかろうかと。教団のことだって同じ事。
「この方は人が助かりさえすれば良い」と、教祖様はおっしゃった。そのこの方、人が助かりさえすれば良いと云う、お道の信心の根本的な所が、どこかが狂っておるから、ただ自分が人を助けさえすれば、じゃない、もう自分の圏内、自分のうちだけ、自分の事だけが繁昌して助かっておればそれで良いと云うような、いわば世界にするのじゃないですけれども、牽制(けんせい)しようたと云うような物が、教団の中にもあるような感じがあるのはそう云う事ではなかろうか。ね、
皆さんの信心がです、いわば足並みを揃えて、まこれは小さい意味合いのことなんですけどもですよ、今日の御理解から云うならば、椛目の35年の記念祭をこの10月に迎えると、それで皆さんが足並みを揃えてと云う事は、これは大変なきつい事。実を云うと不自然な事。ね、足並みが揃うてもいないから、その迫力がです目指す所がです、ね、そこを焦点に絞られての生き方にならして頂かなければならないと云う事です。世界真の平和とか、ね、教団の為に祈るとか、ね。
お広前の式年の、例えばお祭りと云ったような事に、お互いの思いがそこに焦点がおかれるとか、何か自分の事から縁の遠い事のようにあるのですけれども、ね、自分のことだけに力を入れる所に、私が今日云う問題が必ず起きて来ると云う事でございます。自分のおかげさえ頂きゃいい。自分だけが幸せになればいいと、それでその幸せなって、これを人から侵(おか)されたくないと云ったような物がです。
牽制(けんせい)しあい、ね、しのぎを削り合わなければならないような、結果にすらならなければならないとゆう事である。祈りと云う物が、願いと云う物がです、もっともっと高度な所へおかれなければ駄目。それをお道の信心で云うならば、「人が助かる事さえ出来ればと云う事である。」そして宗教を持つ、いわば本当の信仰生活とは、初めに申しますように、言いたい事もよう言わず、したい事もようしない。
それでいて自分の思うておる以上の夢にも思わなかったような、おかげの中に浸らせて頂けれる生活。そう云う信心。まそう云う、例えば高度な祈りを持たせて頂いての信心がです足並みが、例えば一緒じゃなく揃うていなくてもです、そこへ向かって目指すその足並みと云う物は、どうゆうような足並みでなかなければならないのか、これも昨日の久保山先生のとこの御理解の中に頂きましたようにですね、誰でもが知っておるお道の信奉者であるなら、誰でも知っておるそうある事が本当だと云う事なのです。
所謂、あの名人円朝がです、話家です。素晴らしい話の名人であのが、誰でも知っておる話し。誰でも聞いた事のある話し。しかも、な何回とはなしに繰り返し聞いて来た話しをです、実際円朝がそれを話した所の話しの難しさに、いわば脇の下から、あの寒中に汗が出るような思いをしたと云うこと。そこに活眼した。自分の口だけで話しておる話しであった。腹から話した話じゃなかった。
それから、あの昔々の物語、桃太郎さんの話しに専念して、いよいよ円朝の名人芸がです、素晴らしい物になった。晩年の頃は、その昔々のその桃太郎の物語だけを読んだと云う話しなんです。誰でも知っておる事。お道の信心をさせて頂く者ならです、皆んな知っておる。真心だ、真だ、実意だ、丁寧だと、ね、その、それが身についていかなければならないのが、実は身についておらず。当たり前のことが当り前の事としてなされていない所にです、私はおかげを頂かんのじゃないだろうかと。
願いと云う物がです、遠いところにおかれると云う事は、いかにも高度な向こうのようにあるけれども、そこに近づいてみりゃ、私共今申しておりますようにです、本当に実意丁寧を身に付けて参りましてです、ね、ひとことひとことを実意丁寧におかげをこうむらせてもらい、真心を持って真を追求していってです。それが血になり肉にならせてもろうて、お道の信奉者としての生き方と云うものが、自分の身に付いてくるところから、そう云う信心がです、ね。
高度な願いに〈動じない〉ね、自分が助かれば、自分一家がと云ったような所からです、教団の事が祈られ、世界真の平和の事が真実祈られれるような、おかげを頂かせてもらうと云う事がです、これは遠い理想とする理想ではなくてです、もう本当に今日からそのような事にですね、そのような信心に取り組ませて頂かねばならんと云う事。酒店の息子だから酒は飲みなれた。ね。成長するに従って・・?力は出けた。ね。
飲み過ぎて酔狂が出、力が余った力がです、世界真の平和に使われるのだけれども、教団進出繁昌の為に、人の助かる事の出来る事の為に行使されればいいのだけれども、兄弟喧嘩の為にその力が行使されるような事になったら、秋永先生じゃないけれども、私共が、例えば御霊の世界に入らせて頂いて、私は何の為にあぁ云う信心を、いわばさしてもらい残しておっただろうかと言うて、悔やまねばならないような事になってはならないと、私は思うのであります。おかげ頂きました。